きんもくせい
あれから季節は一巡りして、朝晩に秋の風を感じるようになった。
博士課程への進学が決まった折、真っ先に伝えたいと思い描いた相手は遥だった。けれど、就職して新しい環境に順応しようと勤しむ遥に、わざわざ連絡する程のことではないかと、私は入力しかけたメッセージを消したのだ。
変わらず静かな古書店で、私は数ページめくった本を閉じて書棚に返す。今日も短くない時間をここで過ごさせてもらったが、心の中でこっそりと祈っている待ち人が店の扉を開くことは無かった。手元に残った数冊の本を、物静かな店主が座るレジへ持って行く。立ち並ぶ書棚の間をチラチラと見遣ったが、やはり、その姿は見当たらない。こんな平日の夕方に、私の待ち人が来るはずが無いことは解っていた。解っていながらも、夏の名残のような夕焼けの中、この足は自然と通い慣れたカフェへ向かう。
互いが学生だった頃、毎週のように過ごしたあの時間は、遥の就職に伴って機会を失ってしまった。ある程度予測はできていた、当然の変化だ。あの頃は偶然重なった時間を、もしくは遥が精一杯重ねてくれた時間を、ただ享受していただけだったと思い知る。
(いつでも会えるよ。)
ああして言葉にすることで納得したかったのは、私の方か。当時、遥と交わした言葉を反すうしながら、夕日で足元に伸びる影を見つめたまま歩く。
(私たちが社会人になっても、どこか離れた土地に赴任しても。)
遥は無事に卒業して、世間に無頓着な私でも名を知っている企業に就職した。何かと連絡は貰うが、私は気の利いた返信もできないままだ。ただ互いが元気であることが解るだけの、簡素なやり取りばかり。私はカフェの扉を開き、一人で席に着き、飲み物を注文して、つい先刻買った本を読み始めようと一冊を開く。
(遥は、意外と甘え下手だよね。)
自分の言葉と苦笑いした遥の顔が、ぐるぐると頭を廻った。読み始めた本の文字列は滑るように流れて、一つも頭に入りそうにない。提供されたカップを傾けてカフェオレを一口飲んだところで、意図せずため息が零れた。甘え下手だったのは、自分なのかもしれない。居心地が良かったあの時間を取り戻す方法は、自分の知識では見当たらないまま。見積りが甘かった、という情けない思考が浮かんで、私は自省の念に駆られた。
閉じた本を置いて窓の外を見遣ると、ライトを照らした車が通過していく。遥と交わした会話を断片的に思い返しながら、随分と日が短くなった、などと思った。
(これも、恋の形の一つなのだろうか。)
私の中に燻ぶり続けてきた疑問は、今になっても、もしくは今となっては、解らないままである。あの時遥が感じていた不安は、そっくりそのまま、私の不安でもあったということだ。一年という時間が過ぎてようやく身に染みたという、完全な周回遅れである。今更になって気付いたところで、もう、目の前の席に遥は座っていない。
私が連絡をしたら、遥は休日を潰してでも顔を出してくれるだろう。その優しさを知っているからこそ、こんな、片付け方の解らない感情のために呼び出すことは憚られた。ただ、それは建前の話。
そんな思考の横で、テーブルに置いたままの液晶画面がメッセージの受信を告げた。すぐに手に取って画面を開きたかったけれど、私は伸ばしかけた手を止める。私は私で元気にやってますよ、という振りをしたくて。そう、これが本音の話。
自分のことを良く思ってくれた相手に対して、期待に添いたいのだ。そうして何度でも惚れ直してくれたら、ずっと傍に居てくれるのだろうか。そんな自分勝手な感情があることは、心の隅で自覚している。
(そういうものでも無いか。)
堂々巡りになる思考を止めようと、先ほど閉じた本を開き直す。今、この文字列が頭に残らなくても、無為に時間を過ごしてしまうよりは幾分良い。私はそう思うことにした。
ふと顔を上げると、カフェの中は人も疎らになっていたことに気が付く。閉店の時間が近いのだろうか、などと申し訳無さを感じて本を閉じた。いつの間にかカップは空になっていて、没頭していた自分が過ごした時間の長さを思い出す。
「ありがとうございました」
会計を済ませた自分の背に、店員の優しい声が聞こえた。
カフェを出た通りは、小さな街灯に照らされただけの薄暗い夜道だ。何度となく二人で歩いた、駅までの道のり。一人で歩くことにも慣れてきたはずの足は、見慣れない夜道を歩いているようにも思える。これを心細いと自覚して、会いたいという言葉を口に出せる性格であれば、一年以上経った今になって、こんなにも悩むことは無かったのかもしれない。もし、もう一度見かけることがあれば、私はその名前を呼んで、手を振れるのだろうか。聞き慣れたあの告白は、また聞かせてもらえるのだろうか。そして、私は「ありがとう」と言えるのだろうか。
そうすることで繋ぎとめるような真似事ができるならば、幾らでも言うのに。
いや、そんな言葉よりも、
(自分も好きだと、言えれば良かった。)
20241015
blue
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金木犀:謙虚、気高い人、初恋
だから、私がさよならを言おう
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