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くちなし

通い慣れた古書店への道を歩きながら、ポケットから取り出した液晶画面を見遣る。表示された時刻を確認して、再度ポケットにしまった。梅雨の到来を待たずに照りつける強い日差しに目を細めて、歩く足元の路面に視線を落とす。転がっていた小石につま先が当たり、コン、と小さな音を立てて跳ねる小石の行先を見送った。
「遥」
呼ばれた声に顔を上げると、目的地であった古書店の前に立つ怜が、こちらに小さく手を振った。騒がしくないその仕草はいかにも怜らしいと思えて、高校時代に抱いていたイメージのままであることが何となく嬉しい。同姓の知人は距離感が捉えづらく、名で呼ぶ程の親しさでなくとも、姓で呼ぶことは憚られる。再会して間も無い頃は何と呼び掛けて良いかと口に出しあぐねていた怜が、躊躇いなく名で呼び掛けてくれるようになったのは最近のことだ。
「待ってたの?」
「いや、丁度来たところ」
都度日時を決めているわけではないが、互いに学生であるからこそ、講義の空き時間が合えばタイミングも重なるというものだ。こと、自分にとっては、この曜日この時間に行けば会えるかもしれない、という思いが無いわけではない。正直に言えば、ある。

古書店で過ごす時間は、互いに干渉はしない。思い思いに選書を終えた頃、相手の姿を探して、タイミングが合えば近くのカフェに立ち寄る。そんな緩やかな交流を繰り返して、数ヶ月が経った。今ではすっかり、お決まりのパターンだ。
「院生って、いつから就活すんの?」
「そろそろだよ。1年の夏からインターンとか」
「論文書きながら就活とか、専攻によっては地獄じゃん」
想像しただけでげんなりするような状況に、他人事ながら眉をひそめるしかない。この顔を見た怜は、「変顔チャンピオンここに現る」と笑った。他愛もない、実の無い会話と言えばそこまでだが、互いに楽しく過ごせるならば、それで良い。笑って、怜はカフェオレを飲んで、喋って、自分はコーヒーを飲んで、たまに会話が途切れては視線が合って。そんな時間を互いに心地よいと思えれば。どこかの歌で聞いたようなフレーズかもしれないが、 "幸せという言葉の意味を初めて知った" ような気がした。...なんて言葉選びは、少しクサすぎるか。
「私は進学希望だからね。気楽なものだよ」
「うへぇ、まだ勉強すんのか」
自分は休学で一年の遅れを感じている分、早々に就職の意向を固めた。反して長年勉学に勤しむ怜の姿は、尊敬できると同時に、最早物好きとしか言いようが無い。
「遥は、卒論順調なの?」
「...ジュンチョージュンチョー」
「急にポンコツになるね」
あからさまな棒読みで返すと、小気味良い程に軽快なツッコミが入る。怜は楽しそうに笑って、手元のコーヒーカップを手に取った。
「四年生はあっという間だよ」
「何なら、五年間ずっとあっという間だわ」
ふざけて耳をふさぐような仕草をすると、怜はまた微笑んで、店内のどこでもない場所へ視線を遣った。その所作は一つ一つが静かで、自分は度々、怜に惚れ直しているのではないかとさえ思えた。

こうして少し先の話をするだけで、自分には自分の、怜には怜の時間が流れていることを改めて実感する。今は偶然重なった時間を過ごしているだけなのだと思い知って。今、この時間が楽しいからこそ、一年後、二年後にはどうなっているだろうかという不安もある。
(あっという間なんだよな、ずっと。)
移り変わる環境の中で、交友関係なんてものはすぐに入れ替わってしまう。春に卒業していった元同期たちは、この数ヶ月で連絡を取り合う習慣が無くなってしまったから、他の誰よりも実感できた。ほんの一年前だって、自分が怜と話す機会すら無かったのだから。
そんなことを会話の外でこっそり思案していると、何かを見透かしたかのようにこちらを見つめる怜と目が合った。
「いつでも会えるよ。
 私たちが社会人になっても、どこか離れた土地に赴任しても」
来るべき未来は何も恐れることは無いのだと、幼い子どもに諭すような柔らかい声で話す。
「...唐突じゃん」
「何となくね」
怜の声は寄り添うように優しく、こちらの不安をさらりと流していく。大人しいように見えて芯がぶれないところも、緩やかによく笑うその表情も、あの頃自分が憧れた "田島怜" という人物像のままだ。そんな感情を他人事のように俯瞰して、また一つ好きなところを見つけたと笑みが零れる。
「怜のそういうとこ、好きだわ」
「それは有難う」
だから、どうか、この席を誰かに明け渡すようなことがありませんように。
(...なんて願いは、自分勝手すぎるか。)
そんな身勝手な思いすら、怜には見透かされているかもしれないけれど。氷が溶けきったコーヒーを口に含みながら、ちらりと見遣った先で、怜がこちらを向いた。何度となく告げた好意にお礼を言われるようになったのは、ここ数ヶ月で我ながら進歩である。
「遥は、意外と甘え下手だよね」
超能力でも持っているのではなかろうか。怜との時間は、互いが声に出した言葉だけでは脈絡の無い会話になることがある。それでも違和感を抱かせないやり取りには、都度驚きを隠せなかった。空気が読めるとか、察しが良いとか、そういうレベルの話ですらない。小さくため息をついて苦笑いするしかなかった自分を見たのか、怜は少しだけ目を細めた。一瞬だけ過ぎ去ったその表情は、笑顔だったのか、他の意図を持っていたのか、自分には察することができないまま。ただ、あまり見たことが無い表情だな、と印象に残ったことだけは覚えている。
(少し先の話に、怜も不安を覚えていてくれたら良い。)
そんな恋の形もあるだろうと、答えを明確にしないまま、勝手な思いを抱いた。


20241009
blue

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梔子:とても幸せです、優雅
今が一番幸せと、言い続けられる日まで
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