じんちょうげ
私は、一冊の本を手に取る。
時間の進みさえ緩やかになったかのような、静かな古書店で過ごす時間が好きだ。少し古い小説が並ぶ書棚の前に立って、丁寧に保管されて古びた様子を見せない背表紙を眺める。気の向くままに一冊の本を手に取り、開いたページにさらりと目を通した。
「レイ?田島怜?」
人の出入りが然程多くないその店で、自分の名を呼ばれて振り向く。同じ書棚の並びに、高校時代の同窓生だった人物、田島遥が立っていた。その手には、数冊の本を携えている。当時交流があったわけではなく、クラスも選択授業も、委員会や課外活動でも、何一つ同じになったことは無かったように思う。ただ、同姓ということで人づてに名前と顔を知っていたため、私が一方的に既知と思っていた相手だ。しかし、こうして声を掛けてきたということは、相手も同様に私のことを認識していたのだろうか。
「田島、遥?」
しかし、声を掛けてもらえたところで、小気味良い返答ができるような気が利くわけでもない。私も同じように、相手の名を問うように返すだけで言葉を発し終えてしまった。田島遥は私の顔、続けて私の手元を見て、また私の顔を見た。
「そう、話すのは初めまして?
名前と顔は知ってて...って言うと、ちょっと怪しいか」
「いや。似たようなものだから、解るよ」
静かな店の雰囲気を壊してしまうことを恐れて、私たちは自然と抑えた声でやり取りをする。久しぶり、と言えるような共通の思い出があるわけではない。何より、自分たちの他に客が居る様子は無かったものの、会話を続けるには不向きな空間である。それを互いに察してか、それ以上に話題を膨らませる様子も無い。どちらからともなく「じゃあ」という素振りをして、田島遥はレジの方へ向かって行った。私は、先ほど開いて目を通した手元の一冊が、自分にとって魅力的だったか否かを失念して、もう一度その本を開いた。
翌週、私は同じ古書店の前に立つ田島遥を見つけた。気付かぬ振りをして素通りすることも憚られ、私はその人物の前で立ち止まる。
「寒くない?」
「寒い。怜、本屋の後、予定あったりする?」
全くの初対面という訳でもないが、付き合いの長い友人という訳でもない。少しの間が空いた後、私が返答に逡巡したことを悟ったかのように、田島遥は苦笑いをした。
「変な勧誘とかじゃなくて。話、したいだけ」
頭の回転が速くて、気遣いができる。人の輪に囲まれている姿を遠巻きに眺めた高校時代を思い返して、この人物がそうであった理由を理解できた気がした。為人は全く知らなかったが、意外と穏やかに話す人だな、とも思う。そして、よく知りもしない相手に対して、私が勝手な人物像を抱いていたことを思い知る。他者への気が回らない私とは異なる身の振りに、少なからずコンプレックスのようなものを抱いていたことを思い出しながら。
そうして促されるままに入ったカフェで、温かいカフェオレを片手に顔を向き合わせることになった。何かに臆する必要も無いが、私は何となく目のやり場に困って自分の手元ばかりを見ていた。
「高校の時、」
騒がしくない店内に似合った落ち着いた声色で、田島遥が言葉を切り出した。私はその声に応じることを示すように、顔を上げる。
「同じ苗字の奴が居るって聞いて、怜のこと知ったんだ」
「私も。でも、話す機会は無かったよね」
「そうそう。卒業して四年も経って、今更って感じだけど」
解る解る、と頷いて、田島遥と目が合う。へらりと笑ったその顔を見て、私も小さく笑った。共通の思い出がある訳でもなく、弾む話題を探そうにも、四年も経てば高校時代の記憶すら薄れている。しかし、緩やかな会話が絶えることなく続いた。田島遥は話し上手であり、聞き上手でもある。共に居ることに、違和感や居心地の悪さを抱かせない。
高校時代に相手を遠目に見ていたのはお互い様であったこと、話す切っ掛けが無かったこと、本屋で見かけたこと。それらをゆっくりと話しながら、たまに会話が途切れては微笑み合って時間が過ぎていく。
(人たらし、と言うと少し言葉が悪いか。)
そんなことを考えながら。それと同時に、自分には無いものを見せつけられているようで、私の劣等感は募るばかりである。こう在れるなら良かった、とさえ思わせる田島遥の人柄は、私の目に眩く映った。
「でさ、もうこれは恋なんじゃないかって思って」
「うん、...うん?」
自分が会話の外で思案していたせいで、文脈を捉え違えたのかとさえ思った。相槌のように頷いたものの、動揺して同じ言葉で問い返すことしかできなかった。
「ごめん、聞き違えたかもしれない。誰が、誰に?」
「自分が、怜に」
臆面もなく返すこの人物は、大仰な抑揚も無い声で愛を語る。まだ人物像すら見えていないものの、冗談と聞き流せる程ふざけている様子ではない。返す言葉を選ぶ間も、私は田島遥の顔から目を離せなかった。会話が途切れて、お互いの顔を見合って、これまでのペースを変えずに話が続けられた。
「少し前に入院して、春休み明け、大学5年目なんだけど。
入院中にふと思い出したのが、窓際の席で本読んでた怜の横顔だったんだ」
怪我でもしたのか、病気でもしたのか、などと問うべきか逡巡したものの、田島遥が話そうとしている本題に沿っていないように思えて、私は言葉を飲み込んだ。
「そしたら、古本屋で会えたから。これは伝えなきゃ、って」
思わぬ告白を揶揄するつもりはなく、私は呆れたような笑いがこみ上げた。
「ふっ...ごめん、病床で...何で私?」
店内は控えめな音量で音楽が流れており、それに隠れるかのように少しだけ笑って。私が顔を上げると、こちらを見る田島遥と目が合った。
「我ながら謎だけど、話してみたい、ってずっと思ってた」
「それは、」
私も、と即座に返せれば良かったけれど。当時の、羨望に混ざった少しの劣等感が、一瞬だけ私の脳裏に過った。それでも、この好意を無碍に扱う理由にはならないか。
「...私も」
そんな、恋の始まりもあるのかもしれない。
20241004
blue
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沈丁花:永遠、不滅
この人と居る私がずっと続きますように
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