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未知の知

知らないことは怖いこと。
知って理解することで、恐れる必要の無いものが判ることもある。
しかし、知れば知る程怖いこともある。
自分に向けられた怒り、哀しみ、そして愛情すら。


笑顔に本物も偽物も無い、と言い切れる人はどれだけ居るだろう。少なくとも、今の自分は言うことができない。多少の気遣いで成り立つ関係ばかりで、自分の感情だけに忠実ではやっていけないと知ってしまった。
じゃあ、目の前のこの女の、本音はどこにある?
彼女の目の前に座る自分の、本音はどこにある?

社会に出て何年も経つと、学生時代の交友は希薄になるものだ。それぞれの仕事や家族を含めて、奔放にやっていた学生時代とは環境が変わっていく。それでも年に一度くらいは会おう、と言い出してくれたのは誰だったか。
「毎年毎年揃いやがって、お前ら暇人かー」
「ちげぇよ。万障繰り合わせて来てやってんだよ!」
そうそう、こんなやり取りで去年も始まったんだっけ。
今や恒例行事となった飲み会は、余所余所しく気を遣うようなお酌も乾杯すらも無く、賑やかに始められた。学生時代の思い出話は共通のトークテーマであるものの、その話題は、毎回そこそこに留められる。
「昔話を振り返るだけの中年にはなりたくないだろ?
 近況を聞き合って、互いの状況を知ったり、新しい趣味を開拓したりしようぜ」
そういった主旨に同意できる面子が揃った会である。ゼミ仲間をはじめ、受講した科目が被った友人など、同期だけで十人を超える集まりだ。
飛び交う会話に耳を傾けてみれば、ソロキャンプのために道具を買い集める奴、親族が亡くなって相続に困った奴、面白かったアニメを勧める奴、姪っ子に同行したライブを切っ掛けにアイドルを追い始めた奴。多種多様な近況に、各々が自由に食い付いていく。周囲のグラスの空き具合を見回したところで、正面の席に座る森と目が合った。彼女とは、同じ沿線に住んでいることもあって、この面子での飲み会以外でも顔を合わせている。
「田口、小皿二枚とお醤油取って」
「はいよ。浜野は元気?」
森が学生時代から交際を続けている相手、浜野とは、俺は卒業以来会っていない。元々、森経由で顔見知りになった程度で、キャンパスを離れてからは会う機会も無いままだ。
「うん。私も一ヶ月くらい会ってないけど」
へぇ、と曖昧な相槌を打ってしまい、お節介な話の振り方だったかと自省した。
「森ちゃん、今も浜野くんと一緒なんだ?」
「そうだよー」
森の隣に座っていた一人が、こちらの話題が聞こえたのか振り向く。森はにこやかに返答した後、手元のビールグラスを持って呷った。そこそこ長く交際を続けている二人に対しては、続く言葉はおおよそ予想がついている。
「もう七年くらい?結婚はしてないの?
 あれ?田口って結婚したんだっけ?」
予想どおりに続けられた森への言葉と、唐突にこちらへ向けられた矛先に、俺は首を横に振るだけで回答した。森はこちらを見ることもせず、グラスを置いたその手でメニューを拾い上げた。まるで、それ以上の会話を遮断するかのように見えたのは、邪推だろうか。
「飲み物、お代わりする人居る?」
方々から手が挙がった様子を見て、森は店員を呼び出すボタンを押した。俺の勝手な邪推ではなく、この話はもうお終い、ということだろう。その計らいに上手くはまった友人は、反対側で交わされる話題に参加する形で、もうこちらを見てはいない。
「手慣れてんなぁ」
何に対して、とは言わずもがな。森はちらりとこちらを見て、先ほどまでのにこやかな表情とはまた違う、他意を含んだ笑みを見せた。


宴席が続くにつれて思い思いに席を移動して、当初の並びではなくなった配席の中で、俺の正面には変わらず森が座っていた。お互い積極的にどこかの会話に入っていく訳でもなく、ぽつりぽつりと話しながら。
「今の彼と付き合ってなかったら、田口と付き合ってたのかなぁ」
喧噪に紛れるような、少し離れたグループには聞こえない程度の声で呟いて、手元のグラスに残っていたカクテルを飲み干さんばかりに傾けた。
「はいはい。森、飲み過ぎ」
俺は彼女の手からグラスを取り上げて、森から離れた場所へグラスを置く。あっという間に残量を減らされたグラスが、薄暗い照明に光った。相談役のような立場で友だち付き合いを続けている俺が、こういう言葉を無闇に信じてはいけない。彼女が信頼してくれているのは、こうして距離を保っている俺。愚痴とも言える話を聞いて、宥めて、それでも飲みに行ける俺。少なくとも、彼女を占有したいと思っている俺ではない。
「森が選んだんでしょ」...俺じゃなくて、浜野を。
言わなくて良かった言葉を、咄嗟に飲み込んだ。声には出していないので、セーフ。しかし、これまで肝心なことは森に伝えたことも無いつもりで居たが、森の言い方を真に受けると、そもそも隠せていなかったということか。それって、全然アウトじゃないか。
「田口、冷たい」
彼女は拗ねたように呟いて、少し遠くに置かれたグラスを、再度手元に引き寄せた。
(お前が言うのか。)
先の言葉を飲み込んで口を閉じたまま吐かずに済んだ言葉と、これまでの自分の言動が、俺の頭の中でくるくると回る。
「冷たくて結構。この揚げ出し豆腐、食べちゃって良い?」
「半分くださーい」
「冷たい田口が食べまーす」
隠せるものは隠しておきたいのだから、彼女には、いつもの軽口として聞き流してもらえれば良い。こうして作り笑いとふざけた態度で逃げ続けてきた自分だから、 "お前が言うのか" なんて言う資格も無い。そんなこと、俺が一番解っている。


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知られることは怖いこと。
知って理解されることで、厭われるものが解ることもある。
しかし、知られないままでは怖いこともある。
自分じゃない誰かが、自分以上に自分を知ってくれることなんて無い。


降りそうで降らない曇り空の朝に、カーテンを開けても気分は晴れない。まあ、例え今日が抜けるような晴天でも、どうせこの気分まで晴れる訳では無いのだけれど。開けたカーテンに背を向けて、軽く背伸びをする。立ち眩みのように目の前が少し白んで、テーブルに手をついた。体調の優れない日が続いているが、そんなものはいつものこと。そんなことは無視して、仕事に行く準備をしなければならない。温かいシャワーを浴びて、気だるい体を誤魔化すように明るい色の化粧をして、私服より少し堅苦しい服を着る。出社前の支度は、まるで武装のようだ。
(さあ、仕事に行こう。)
鏡に映した私は、数十分前とは別人のように立っていた。こうして見映えが変われば気の持ちようも変えられるのだから、私なんてものの中身は然程重要ではない。

仕事ばかりの毎日で、家族と接する時間も少ない。親だって恋人だって、私の全てを知っている訳では無い。少しの嘘だって必要な時もある。では、自分の本質はどこで自覚して、どうやって認識されるのだろう。
(ありのままを見せるつもりも無い、浅い付き合いばかりの中で。)
そんなことを少しだけ考えて、すぐに思考を止めた。自ら隠そうとしているのだから、自覚したところで枷になるだけだ。恐らく、そんな私は誰にも求められていない。知られたところで、知ったところで、誰も得はしない。例えば一時でも、私が何も武装せずに居られる相手が欲しい。まあ、きっと贅沢な話だ。本来、今の自分を大切にしてくれる人にそれを求めれば済むはずなのに、知られることで厭われることを怖がってばかりで、それをしないのだから。
結局、止めどころの解らなかった思考は、私の頭の中で容量を増やすばかりだ。
「森ちゃん?お早う」
バスを降りたところで私の思考を遮ってくれたのは、勤め先の先輩だった。武装した "森ちゃん" は、いつも程々に元気で話好き、と設定されている。周囲からの印象も、私の中でも。
「お早うございます。今日、寒いですね」
「ね。布団から出たくなかったよ」
キャラクター設定さえ決めていればそこそこ円滑に生きていけるのだから、私の中身がどう在るかなんてものは、世の中には関係が無いのだろう。こうして笑顔を返してくれる先輩だって、外面なんてものを持っていて、心の中では声を掛けるのは面倒だと思っているのだろうか、とか。そう考えることで、何故か救われるような気にもなった。武装して社会に在るのは、別に私だけではない。

昼の休憩時間になって、スマホのロック画面に表示された通知に気が付く。
[ 今日飲み行く? ]
アプリを開くと、挨拶代わりのスタンプに続いて簡素な一言。学生時代からの友人、田口からのお誘いだ。私は同意を示すスタンプを一つ返信して、スマホの画面を消した。
疚しいことは何も無い付き合いでも、端から見れば疑う要素は充分にある。そんな付き合いは長く残すべきではない。ただ、武装していない私の話を聞いてくれる相手は、どうしても手放せない。こうやって防御が薄い隙を見計らったかのように、するりとはまってくれる相手がたまに居るのだ。例えばこれが疚しい関係に発展しても、仕方ないと言わんばかりに。
(まあ、そうはならんけど。)
誰に言うでもないその思考は、自分から自分への言い訳のようだ、と思った。少しだけ、恋人の憂いが頭を横切る。しかし、それはほんの少しだけで、私は見ない振りをした。

駅前のカフェで、明確な時刻を定めずに待ち合わせる。時間に縛られる日常の中で、こういった待ち合わせはとても心地良い。お互いが当初からその心づもりで居るので、こうして待つ時間には何の焦りも無い。
以前、私が田口を待たせて慌てたこともあったが、
「お互い様だし、俺らはそういうの無しでいいじゃん」
と言われたことで、無駄なプレッシャーが無くなったように思えた。
私は、近くの本屋で買った新刊を読みながら、来るべき待ち人の到着まで時間を過ごす。
「お待たせ」
「早かったね。何か食べたいものある?」
相手の答えが明確でなければ、自分の回答は用意してある。今日はお刺身を食べたい気分だ。気兼ねなく言えるのも、この関係の醍醐味である。今の自分は、他の誰に対してよりも自由に振る舞える。こんなことばかりしていたら、きっと近い内に呆れられてしまうのだろうけれど。そんな暗い気持ちが浮かんだが、すぐに目を伏せた。
「何でもいいよ。この前、焼鳥付き合ってもらったし」
「じゃあ、お魚美味しい店希望」
最後の一口を飲み終えたコーヒーカップを片付けながら、脳内のデータベースを検索するように近隣の飲食店を思案する相手を見遣る。ここで彼が多少選択に悩んでいても、気遣って候補を拡げるようなことはしない。そういった駆け引きが要らないことは解っているし、気遣いが足りないことで嫌われたとしても、ここまで勝手な振る舞いをしておけば、仕方ないと諦められる。そう、だから、先ほどのような考えは杞憂だ。


夜深くはならない時刻の頃、お互いに時計を見遣る。今日はここまで、ということ。
「いつも誘ってくれてありがと。楽しかった」
「また連絡すんね」
「はーい。ご馳走さま」
そんなお決まりの挨拶を交わして、それぞれの帰途に着く。これが異性同士である限り、いつか疚しいことも起きるのだろうか。そんなことを頭の片隅で考えながら。見送られた改札で、ふと背後を振り返る。雑踏の中で田口と目が合った、気がした。少なからず抱いてくれている私への好意と、私に恋人が居るという事実に葛藤している彼の胸中を、少しだけ考えて。私は、それら全てに気付かない振りを続ける。


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酔いも眠気も覚めるような、寒い夜道を歩く。森が話す声と、その背後に響いていた飲み屋の喧噪から離れると、静かな通りは異様な程に身に沁みる。
彼女に好かれたい。だからこそ、こうして "イイヒト" であろうとしている。とは言え、例えば彼女が俺を好きだと言ってくれたところで、得体の知れないその感情は怖い。本音はどこにあるのか、探せば見付かるものなのか、そもそも存在しているのか、俺にはさっぱり解らない。最早、未知だ。優しくされることも、好かれることも、正体の解らないものは怖い。理解すれば、この中途半端な恐怖心も失せてくれるのだろうか。

無知であること、未知であること。
知らないことは怖いのに、知ろうとはしない。
知れば知る程、怖いことばかり。

ポケットに入れていたスマホが振動する。画面を表示すると、[ ただいま ]と描かれたスタンプが届いていた。そして、間髪入れずに画面が動き、[ おやすみ ]と描かれたスタンプが表示された。
すぐに[ おやすみ ]とだけ返信して、少しの間、夜道の中で灯る画面を眺める。送った言葉が読まれた様子は無い。
「帰って即寝...」
彼女らしいと言えばらしい流れに少しだけ笑って、俺は画面を消した。
手を洗ったか、化粧を落としたか、上着をハンガーに掛けて部屋着に着替えたか。過保護なくらいに森の動向が気に掛かり、いつまでも腹を括れない自分に苦笑いを一つ。
「俺、めーめしーい」
人通りも少ない冬の夜道、溜息と同時に吐き出した声が情けなく零れた。

優しくしたい。彼女へ抱いているこの感情は、おそらく好意。しかし、そんな自分の感情すら自信が無い。これは身近な友人に嫌われたくないだけで、それが偶然異性だっただけで。そんな考察が頭を巡って、未だに自分の本音も解らない振りを続けている。
そして、これに似た感情が彼女から俺に向いたとして、その本音はもっと解らない。
「だから田口は、付き合いが続かないんだよな」
学生時代に言われた一言は、今でも自分の中に燻っている。


20240514
blue
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