劣化する心
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あまりにも険悪な雰囲気に立ち尽くすしか無く、自分を呼び出した女を見つめる。彼女はその重い空気に埋もれるかのように、小さな声を短く発した。それは独り言のような細い声で、私が聞き取れなければそれで終えてしまいたかったのだろうか。そんなことを考えつつも、生憎、しっかりと聞き取れてしまったのだけれど。
「別れて」
いっそ、聞こえなかった振りでもしておけば良かったのだろう。それでも、彼女の明確な意思を込めた声色が、音量とは裏腹に強く訴えていた。突然のことに焦燥感を覚えた私の胸中はひたすらに隠そうと、意識的に柔らかな声を整えて発する。
「どうしても?」
取り繕ったように場違いな私の声が、彼女の耳にどう届いたかは解らない。彼女は子どものように頷く形で、私の問いに答えた。声色の次は単語ごとのテンポを抑えて、私は少しずつ掘り下げようと試みる。
「私、何か、嫌なことした?」
彼女は自身の足元ばかりを見るように俯いたまま、華奢な左右の手を落ち着きなく組み替えている。この期に及んでそんな仕草も可愛いと思うのだから、私はちゃんと、彼女を好きだ。先ほど小さく頷いた首は、彼女を見つめる私とは目線が合わないまま、ふるふると横に振られた。例えば何か、彼女にとって嫌なことをしてしまったのであれば、謝って、双方の落としどころを見つけていくしかないと思っていたけれど。そうではないのか。
「理由、教えて?」
首の動きばかりで明確な発言をしてこない彼女へ、仕草だけでは答えられない問いを投げた。少し意地の悪い方法かもしれないけれど、少しの言葉だけじゃ解らない。言葉による回答が無いままの時間、私は彼女の仕草を見つめていた。彼女は少しだけ顔を上げたが、その目は私の胸元を見る程度の角度で、視線が合うことは無い。その口は何かを言い淀むように唇を揺らして、声を発する手前で止める。そんな様子を二回繰り返した。
「リクくん、女の子だから」
ようやく返された回答はあまりに今更な事実で、私は返す言葉を失った。覆すことのできない事実を指した返答に、私は足元が揺らいだような目眩を覚える。しかし、事実であるということは、変えることも、抗うこともできないということ。私は零れそうになった溜息を呑み込んで、苦笑いするしか無かった。数ヶ月とは言え交際した相手に、嫌な思い出を残したくないという意地もある。
「それは、...改善できないねぇ」
「...ごめん」
その言葉を最後に、彼女は逃げるように走り去った。私はその背を見送ることしかできず、残された小さな謝罪の言葉が、私を責めるように突きつけられた。
(そんな今更なこと、解っていて、私のことを好きだと言ってきたじゃない。)
(ちゃんと、好きだったんだけどな。)
何かに弁明するように思ったものの、意図せず思考した "ちゃんと" という言葉が、自分の胸中をくすぶらせた。いつの間にか形成された自身の嗜好が "普通ではない" ことを自覚していながら、それを意識しないように "普通" の範疇であるように振る舞っていたことに気付かされるのだ。
(もう、いいか。)
彼女とは同じ学校、隣のクラスという環境だったが、その後、積極的な交流はしなかった。いや、できなかったと言う方が語弊は少ない。男女の仲で、恋人から友人に戻ることは難しいという一般論もあるが、女性同士という歪な仲であれば尚更である。恋愛対象が同性である自分はこの世の中では幸せになり難いのだ、と解った振りをすることで、心の折り合いをつけることにした。
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二度寝をした休日の朝、昼近くなって目が覚める。昔の夢を見たような気がした。目を覚ました瞬間は鮮明に覚えていたはずのその夢は、ベッドから出るまでの僅かな時間であっと言う間に薄れていく。
あの頃は、思い出したくない記憶もあるけれど、大切な思い出も同じくらいある。
それでも、忘れることを気に病む必要は無い。
自分は、高校の三年間を女子校で過ごした。男女別学というのは、共学校とは異なった特殊な閉鎖環境だったように思う。好きな男性教諭で派閥が出来たり、何なら生徒同士で恋愛に近い感情のやり取りが発生した。初めて同性から告白を受けた時こそ驚きはしたが、二回目以降はそれを容認するようになった。接点の少ない異性よりも、身近な同性の方が親密度は上がりやすいのだろう、と当時はすんなりと腑に落ちた。そして、周囲からそのように扱われ続けると、人の性質も変わるものである。思い返せば、幼い頃は人並みに初恋も経験したものの、そんな環境の中で自分の恋愛対象は同性である女性になった。
若い頃は、世間や常識から少しずれた性質を好むこともある。最近ではネットスラングを始めとして、厨二病などと呼ばれる部類に近い。今よりも性の概念が固かった当時において、その嗜好は異端者としてのアイデンティティのようだった。環境に影響されたという自覚はありながら、そうなった自分に面白みを感じて、同性からの求愛を容認していたようにも思える。
(懐かしいな。)
そう、大切な思い出もあるけれど、思い出したくない記憶も同じくらいある。
だから、忘れることを気に病む必要は無い。
言葉とは、とても曖昧な表現の方法だ。ある言葉と、その否定形、あるいはその対義語。それぞれは類似しているが、決して等しくなることは無い。
可愛い、可愛くない、醜い。
好き、好きではない、嫌い。
普通、普通ではない、異常。
それらは全く違うという訳でもないが、ならば、それらの境目はどこだろうか。人それぞれ捉え方も異なるのであれば、各々の認識が同じかなんて解る術が無いに等しい。例えば世間一般での平均が "普通" と呼ばれるならば、何らかにおいて突出したものは "普通ではない" と呼ばれる。しかし、 "異常" と言われるとやや意味合いが異なる。とは言え、それらは全くの別物という訳でもない。いずれも、称した者の心一つ、受け取った者の心一つ。
吸い込んだ煙が肺を満たして、私は少しむせた。付き合いの長い友人が、ここぞとばかりにこちらを見る。
「タバコ、止めたら?」
長い付き合いの中でもう何度目かも解らないその言葉を問うてくる友人に、同じように何度目かも解らない否定の意を返した。彼女は少しだけ目を細めて、あからさまな溜息を零す。私たちの間で何年も続いている、お決まりのやり取りだ。何度言われても私は頷かないだろうし、彼女だって毎回本気で言っているわけでもない。喫煙者の肩身が狭いこのご時世で、私のために喫煙席に座ってくれるのだから。
吐き出した煙の向こうにある世間は、何だか妙に騒々しく見えた。今が年の瀬だからか、それとも元々こういうものだったのだろうか。灰皿に落としたつもりの灰が、少しだけテーブルに跳ねる。紙ナプキンで撫でるように拭いて、ジリジリと短くなった煙草の火を灰皿に押し付けて潰した。
「リクは最近どうなの?」
緩やかに続く会話の中で、彼女は甘噛みしていたストローから口を離してこちらを見る。溶けきった氷で薄くなったアイスティーは、飲み干される手前で放置された。
「どうって...まあ、いつもどおりかな」
実の無い回答ばかりで申し訳なさを感じるが、私の近況なんて知らなくて良い。突き放している訳ではなくて、貴女はそんなことを心配しなくていいんだ。可愛くて、大切にしたくて、ずっと仲良くしていたいから、私なんかで汚しちゃいけない。
「いつもそれー。私の話聞いてくれるばっかり」
もう何年も付き合っているのに、と彼女は口を尖らせた。
「そう?ユカがよく聞いてくれるから、わざわざ言う必要が無いだけだよ」
納得がいかないのか、解りやすく不貞腐れた彼女は、伸ばした前髪を摘まんで梳くように撫ぜた。手持ち無沙汰な時の手癖は変わらないな、とうっかり微笑んだ私に、彼女は気付いただろうか。
(ユカが幸せになってくれれば、何だっていいんだ。)
口に出せないまま、何年経っただろう。他人の前では歳相応の立ち居振る舞いをしようと気を使うところも、その割に気を抜いて子どものようにストローを噛んでしまう癖も、今みたいに伸ばした前髪を弄る癖も、彼女の仕草をずっと見てきた。これが友情なのか、恋情なのか、今となってはもう判らないけれど。とりあえず、全部ひっくるめて大切な人だ。彼女が幸せに生きてくれれば、自分がそこに居ても、居なくても。
これくらい深い愛情で異性に入れ込めるならば、自分ももう少しは幸せになろうと思えたかもしれない。けれど、矛先は同性である女性ばかりで、性の概念が固いこの世の中では、少々幸せになり難い。随分前から、私はそう決めてしまった。人を好きになること、大切に思うこと。それらは、他者に対して覚えるものと理解している。それが同性であれば友情になり、異性であれば恋情、まれに友愛になる。人はそうして繋がっていると知っているし、それなりに経験もある。しかしいつからか、人を好ましいと思うこと、好ましくないと思うこと、嫌うこと、そういった感情を抱きづらくなってしまった私は、何を無くしたのだろう。そんな思考の中で、唐突に今朝見た夢を思い出した。
(ああ、そうか。あの頃...高校時代に踏み外したのか。)
いわゆる世間一般の大多数が通るはずの正道から、自らの足で歩みを逸らして、そのまま大人になってしまった。いや、大人になれないまま歳ばかり取ってしまったから、こんなことで思い悩んでいる。あの頃、私と交際した女の子たちは、それぞれが真っ当な女性になって、今では幸せな家庭を持っているのだろうか。今目の前に居る彼女のように、恋人の言動に一喜一憂しながら。あの頃すり切れた私の心は、修復される機会も無く時間ばかりが経った。学生の頃に "普通ではない" と称された自身の嗜好や振る舞いは、大人になった今、公言すれば "異常" と扱われることが多い。もうこのままでも良いと思う反面、このままではやっていけないと思うことも事実。
(とは言え、今更、簡単に変えられるものでもない。)
友人は、無事に購入できた洋服が包まれた紙袋を大切そうに抱えて、満足気に微笑んだ。
「付き合ってくれてありがとー」
「良い服、見つかって良かったね」
頷きながら、その、少し重たそうな紙袋を肩に掛けて。ポケットから取り出したパスケースを片手に、じゃあまたね、と手を振って改札内へ歩いていく。その背中が人混みに溶けて判別できなくなるまで、私はその場から去ることができなかった。
20240430
blue
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