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花より朧、しかし花より燦として

人は一人で生きて、独りで死んでいく。
誰かが言った言葉だったか、どこかで読んだ言葉だったか、若い頃の自分が勝手に思っただけなのか、もう忘れたけれど。あまりにも寂しげなその言葉は、いつからか自分の心に残って、自身の振る舞いに少なからず影響を与えていた。

一人で生活するには充分すぎる1DKの部屋で、座面高さの低いソファにだらしなく背を預ける。エアコンの駆動音以外に音は無く、何とはなしに吐いた溜息が異様に響いた。例えばこの部屋で急死して、誰に連絡もできず終わってしまうかもしれない人生。親族は年々疎遠になり、頻繁に会う友人が居るわけでもない。繁忙期になれば、職場以外で知人に会う機会はほぼ無い。いつか忘れられ、誰にも気付かれず。
(ああ、誰だって、独りで死ぬ可能性はあるわけだ。)
自分は今、社会という全体から見て独りではないか。急にそんなことを考える。そうして、溜息をもう一つ吐きながら片手に持ったスマホでSNSを開く。世間のヘッドラインニュースを見て、ホットトピックを見て。
(まだ取り残されてはいない。)
誰かに言い聞かせるかのように、けれど言葉にはせず思考する。一日の大半を仕事に費やしても、社会に貢献していると信じることで、自分は世の中で生きていた。今思えば、そう信じたかっただけなのだ。若い時は、仕事以外のことを考える余裕など無くなって、世間に取り残されたとしても、形振り構わずひたすら働いた。それが正しいと思っていたのかもしれないし、何らかの達成感だけで生きていられたのかもしれない。若い時はそれでも良かった。けれど、今は、

自らの思考に嫌気が差して、ぼんやりと眺めていたスマホを懐にしまう。
タイミングを見計らってばかりで余った有給休暇を消費するために、大型連休張りの休暇を取った。とは言え、どこかへ旅をするような目的も、遠出する体力すらも無い。いつか読もうと積み重ねていた本も、いつからか買い足すことすら止めてしまった。新しい趣味を見つける気力も無い時期が続いて、今となってはそれらしい趣味も手元に残っていない。山に登ってみたり、蕎麦を打ってみたり、歳を取ってから慌てて趣味を探す人が居る意味が解ったような気がした。
折角の連休も、冒頭数日で持て余した。いよいよ為す術も無い午後、数駅離れた場所にあるショッピングモールへ向かうことにした。


到着して早々に目指した先は、施設の地図が設置されたエレベーターホールである。しかし、表記された店舗名を知ったところで、それが何を販売している店かも解らない状況だった。知った振りをしていた流行も、とっくに追えていないことは解っている。私は早々に理解を諦めて、歩くルートだけを策定して見て回ることを目的に据えた。
立ち並ぶ店舗は、流行りの服を纏ったマネキンや、季節の色合いを模したコーディネイトで飾られている。売り出している特色が少しずつ違う並びは度々私の目を引いて、しかしそれ以上の思い入れを持たせずに、緩やかに足を進めさせた。
(まるで美術館か博物館のようだ。)
ただひたすら、綺麗に陳列された品々を眺める。ウィンドウショッピングという単語を用いた人物は、こんな気分だったのだろうか。

運動の習慣が無いせいか、仕事とは違う疲労に足が重くなる。広々とした通路の中央に点在する椅子は、こちらの疲労を見透かしたかのように並べられていた。偶然にも空席を見つけ、私はそっと腰を掛ける。自販機で買ってきた小さなペットボトルを開け、小さくひと口分の緑茶を口に含んだ。ポケットからスマホを二つ取り出したが、どちらも通知などは無い。緊急の連絡が無いことに安心した反面、不在でも困らないと言われたかのようで、所在無さを感じてすぐに仕舞った。
こんな日を過ごしていると、あの慌ただしい毎日は何だったのだろうか、という虚無感が押し寄せてくる。形の残らない仕事に追われ、身に付いたスキルが何なのかも解らないまま、時間ばかりが過ぎたようにも感じる。世間のことが解らなくなるまで働いていたような、若い頃の自分が抱いていた意欲はどこへ行ってしまったのか。
(元々そんな物があったのかすら、解らない。)
少し前までは外を歩く度に香った金木犀も、いつの間にか散っていた。木々は赤みを帯びて葉を散らして、辺りは既に寒々しい枝が並んでいる。こうやっていつの間にか日々が過ぎて、自分も皆に忘れられてしまえば良いのに、などと思う。そして、いざという時に困って、あの人が居てくれたら、と思い出してもらえれば、残せる形としては満足だ。
(休んでいても、外に出ても、こんな思考ばかり。)
我ながら情けない、と俯きかけた顔を持ち上げて、私はまた歩き出す。華やかに飾られたショーウィンドウが目に入って、何件目かも解らない店の前を通過した。

賑やかな街中は、幸福と不幸が溢れている。疲労かストレスで痛む胃に溜息を吐きながら、周りを見渡すように視線を巡らせると、平日とは思えない喧噪の中にそれらが伺えた。楽し気に話しながら歩く人、目的の品を買えずに落胆する人、空いた椅子に腰掛けて一休みする人、レジに並んで財布を片手に微笑む人。街の中は騒がしい。ずっと前からこうだったのか、日常を見失っていた自分が気付かなかっただけなのか。気付く以前の実情が解らない今、それを判じることはできない。


何を購入するでもなく、無為に時間を過ごしただけの外出は、ますます自分の所在無さを際立たせた。今日の夕食に、と見繕った惣菜と酒を片手に帰路を歩く。日が沈んだばかりの空は薄明るく、細い月が高い位置に見えた。冬に向かう匂いがした。夜道に香る季節の匂いは、それぞれ思い出に紐づいている。ただ、どれも仕事の記憶だけがしつこい程に付き纏い、風情の無さを感じさせる。
(大丈夫。忘れていない。忘れられない。)
いつまでも切り離せない記憶は、良いことも悪いことも、自分が走ってきた証である。この思い出が消える時は、これまでの自分を否定する時だろう。そう思えば、日に日に霞んでいくとしても、まだ大丈夫。思い出すのは、決して良いことばかりじゃない。あの時は腹が立ったり、泣いたりもしたけれど。こんな風に懐かしんで思い返す時が来るのであれば、笑って頷いておけば良かった。
(...なんて思えるのは、歳を取ったからかな。)
今になって気付くのだから、人生なんてものは情けない話ばかりだ。何度も俯いて、悔しがって、涙を流して、それでも誰も見てくれる訳ではない。一人で泣き終えて涸れた目で、前を見据えて歩くしかない。今は一人で、これからもそうなのだろう。一度気付いてしまうと、想像は容易い。時間を失くすということ、人を失うということ。過去と未来の意義を見失った瞬間、自分の足で立てなくなる程の衝撃を知る。歳を重ねれば重ねる程、これまでの時間が、経験が、重石のように圧し掛かってくるものだ。


燃えるような夕焼け、冴えた月夜の遠雷、暗闇で鳴る木の葉、張り詰めた朝霧の露。それら一つ一つを思い浮かべれば、先ほどまでの飾られた店舗よりも、いっそう鮮やかに心を締め付ける。これは、狂おしい程の郷愁だ。そういった風景とそれらの思い出が、いつか自分の心を壊す日が来るのだろうか。
(世界はまだまだ綺麗だ。)
よくよく考えてみれば、妙な言葉だ。思案した後になって、私は自分の思考に首を傾げた。世界はいつだって、変わらずそこで巡り続けているだけなのに。綺麗だと思えなくなってしまったのは自分の勝手だけれど、そもそも綺麗ではない場所ばかりを切り取って凝視していたのかもしれない。

人生なんてものは、花より朧。
しかし、それは花より燦として、人はひたすら歩き続けるのだろう。


20240321
blue
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