記憶
何年も前のこと、僕は、とあるブログを注視していた時期があった。それを書き起こす筆者の心情が気掛かりで、ついつい追うように更新を待っていた。
それは最近のようにも感じるが、だいぶ昔のようにも感じられる。
記憶
ある日、筆者は自身の誕生日だったらしいことを述べていた。
[ また、節目まで生きている ]
祝い事とは捉えづらい記事の始まりに、不穏な印象を抱いたことを、今でも鮮明に覚えている。筆者と交流のある人物からか、誕生日祝いのコメントが一つ付いていたので、きっとあの日がそうだったのだろう。僕は、祝って良い雰囲気なのかも図り切れず、それまでどおり静観を貫いた。その数日後の記事で、コメントに対して坦々とお礼を述べていたものの、その記事以降、ブログは更新されなくなった。
書き込みが無いと感じたのは、最後の記事から数ヶ月が経った頃で、何かを書くような必要が無くなったのだろうか、などと一人ごちた。例えば、こんな場所をはけ口にしなくて良くなったとか、多忙な日々を送るようになったとか。そうして、筆者にとって必要でなくなったブログという場所は、淘汰されたのだろうか。他の読者や僕は、筆者にとって不要になったのだろうか。筆者は、またここに戻って来るのだろうか。
そうして、そのブログという存在は、僕の中で消えていったのかもしれない。それは初めから存在すらしていないようで、ただ、溶けて消えたのではないだろうか。今更になって思い返せば、少し寂しいと感じたのかもしれない。
「なーんか、普通に片思いだったよね、それ」
あれから数年、そのブログは更新されないまま、僕の中で完全に消えてしまうことは無かった。もう、そのブログを開いて動向を追うことは無くなったけれど。溶けて消えてしまいたいと言っていた筆者の、その希望どおりにはならなかった。できなかったし、したくなかった。そんな話を、僕は酒の席で友人に語った。
「不思議な縁だし、何の接点も無いけど」
自嘲するように呟いた僕に、友人は柔らかく微笑む。
「それでも、今身の回りにあるどんな噂よりも素敵」
いいわね、と嬉しそうに囁いて、友人はグラスのカクテルを空けた。手を伸ばして取ったメニューを捲り、次に頼む酒の選択へ向かったようだ。付き合うように僕もグラスを空けて、友人が持つ逆さまのメニューを覗き込んだ。卓上に残る料理を見ながら、メニューに並んだアルコールの味を想像している。ハイボールにしようか、などと考えて、僕は覗き込んだメニューから目を離す。僕の仕草から注文を決めたと判断した友人は、店員を呼ぶベルを鳴らしてこちらを見た。
「もう少し聞かせてよ、その話」
「話す程の盛り上がるネタは無いよ」
然程間を開けずに店員が席に近付いて来て、友人と僕は会話を中断した。それぞれの飲み物を注文して、店員の背中を見送る。
「そのブログ主さんを想っていた、きみの思い出話で充分」
僕は少しだけ思案したが、それも、話題に挙げる程の数は無いものだと、何だか物悲しい気分になりかけた。碌な話題提供もできない。
「結局その人って男?女?」
「知らない。性別に関する記述は無かった」
女性のようだけれど、男性とも。学生時代に好きなクラスメイトが居たようだが、それがどんな人かも書かれたことは無かったんじゃないだろうか。
「そもそも、きみは男が好きなの?女が好きなの?」
「それはまあ、女性だろうね」
えー、という驚きとも、残念そうとも取れる声が聞こえた。この友人の嗜好については気付かない振りを貫いているので、今回も黙殺と決めこんだ。
「そのブログが更新されなくなって、」
僕からの回答が得られないと解っていたであろう友人は、さらりと言葉を続ける。あまり話上手でもない僕が長く付き合いを続けられるのも、こういった些細な気遣いが積み重ねられているお陰だと思っている。
「悲しかった?心配になった?」
「どうかな...自分でも解らない」
我ながら歯切れの悪い回答に、次の句を何と繋げるべきか逡巡する。当時は何らか思うところがあったのかもしれないが、今となってはもう、自分でも解らないことばかりだ。
「身近な友人でもなかった訳だし。
万一のことがあったとしても、介入できないし、忘れた方が良いのかなって」
「忘れる必要は無いんじゃない?
どんな形の想いであれ、大事なものを失くしたら悲しむものでしょう」
忘れなくていいよ。泣いてもいい。
僕は長い間、誰かにそう言ってほしかったのか。
その言葉を貰って初めて気付いたのだから、鈍感で居続けたことが情けない。酒のせいもあって、少し気が緩んでいるのかもしれない。喉の奥に何かが詰まったような息苦しさを感じて、僕を真っ直ぐ見据える友人から目を逸らした。僕は気を紛らわすように箸を手に持ち、だし巻き卵の切れ端を小皿に取る。今すぐに食べたい訳ではないが、顔を上げたら、目が合ったら、涙を堪えていることに気付かれてしまう。
意外と普通に生き続けているけれど、忘れてなんかいない。今だって、思い出すだけで泣きそうで、もう壊れているんじゃないかって。寝ても、起きても、何年経っても。僕はあの時とっくにおかしくなっていて、あれからずっと、一生懸命普通で在ろうとしているだけだったのかもしれない。
20240313
blue
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