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6月16日

別にね、今日がその日であることに大した意味はないのよ。
そう、意味があるのはそこではなくて。
今日というこの日に、自分が存在してることに意味があるの。


三年前の今日、サクラが死んだ。
サクラは自分より三つ年上の女性。自分と彼女がそれぞれボロボロだった、それはもう酷い時期に、一緒に日常を過ごしていた。ただそれだけと言えばそれだけの人で、それほどと言えば、もう他に代わりの居ないほどのことなのだ。つまり、自分は彼女が大好きで、きっと彼女も少しは自分を好きでいてくれたのだと思える。そんな人のお話。

亡くなった日のことは、詳しく知らない。自殺だった。
彼女がどんな思考経緯を抱えてその選択をしたのか、当時頻繁には連絡を取っていなかった自分には見当がつかない。
考えればきっと心当たりの一つはあるのだろうけれど、自分はそれを考えたくないまま三年を過ごした。だって、それが自分に関係のあることだったら、きっと自分は、謝ることもできないその事象について物凄い後悔を今更ながら抱くのだろうから。だから、考えたくなかった。だから、見当もつかない、と言うことにしている。
三年前の今日、明け方に、自宅の浴室で腕を切った。そんな話を彼女の妹に聞いた。その映像は一度も見たことが無い。しかし、未だに彼女を思い出すような夢の終わりに現れるのだ。真っ赤な浴室の中で、サクラが蹲る。それはもう、酷い映像だ。
何故自分が三年も経った今でも、彼女の死についてこんなにも固執してしまうのかと言うと、その頃に、自分の携帯電話に着信があったから。きっとサクラは、決断の前か、後か、に自分の声を聞きたがっていた。しかしそれは明け方のことで、叶わずに時間が過ぎてしまったのだろうけれど。きっとサクラの中には数分の猶予があって、その内に自分のレスポンスでもあれば、踏みとどまるか、判断の助言を自分に求めたのだろうと思う。そうすれば何かが変わったのかもしれない、とか。
考えないはずが無い。


この三年間、色々なことにふたをしながら過ごしてきた。だって、一人で居る間にそれを思い出すという行為の恐怖と言ったら、無い。自分はいつだって、色んなことを怖がって過ごしてきたのだと思う。
今、沢山のことの変わり目に立っている。それは一人ではなくて、他者に背を押されて、のことだけれど。正確には、きっと背を押すよりも手を引かれている。もしくは、そんなに親切でもなくて、ただ先を歩いているから追いつけ、と言われてがむしゃらに追っている気もしないでもない。
ただ、それでも、自分には間違ったことじゃないんだと言いたい。

だから、もう、今日がこの日であることには大した意味がない。
ただ今年も、自分がこの日に存在しているということに意味がある。

きっと来年も、再来年もこの日に存在して、毎年少しずつ離れていくその世界に、何かの感慨や郷愁を覚えながら過ごしていくんだって。それを忘れることは出来ないけれど、もう泣いていられないって。
少し、泣いたけれど。

もう、夏が近いからね。



080616
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